昭和41年01月11日 朝の御理解



 信心は銘々のもの、どれが本当でどれが嘘と、そういう生き方は間違っておると。これが本当だと言うことはないのです。信心は銘々のものですから。自分の信心の尺度で人の信心を推し量るという事なんかはだからもっての他だということなのですね。ですから、信心は銘々のものだと。
 お前、そんな事じゃいけんと。こんな信心をしなければと例えば自分の信心を向こうに、人に、押し売りしておる、押し売りというですかね、ただし問題は銘々自分自身がです、自身がこれじゃいかん、これではいかんと、こげな信心じゃほんなこつじゃないと 自分自身が思うておればそれでいいのです。ね。それは出来ません。出来んなりにも私は私なりに、私なりの信心をさせて頂いておるのだと。
 どんなに、人が見ておっても、立派な信心をしておっても、その人がこげな事じゃおかげを落とすといったようなものが自分の心の中にあるようなら、それはほんなこっちゃないと。自分なりのものですから。それでいて、それが、いつもそれであってよいかというたら、そうではないです。
 信心は釘つけではないと仰るのですから、やはり、動いておらなければならい。しかも、やはり、高度なほうへと本当なほうへ本当なほうへと動いていきよらなければ駄目です。だから一つの信心のまあ、なんと申しますか、こうなって、ああなるものだという考え方というのも間違っておるですね。
 例えていうならば、神様ごと、今日はお月並祭ならお月並祭にお参りさせて頂こうと思いよった。ところがちょうど人が見えて、お参りが出来なくなった。そういう時には自分の信心が狂っておったんだ間違っておったんだと、言う風な事を私は思います。又そうなんですけれども、その事を人に言うことじゃないですね。 その人の信心がどんなに高度なものになっておるか分からないですから。
 それよりもっと高度なものであるかも分かりませんから、例えていうなら明日、あさってか、13日会です。十三日会の会員であり月々十三日会、会員としての御用もさせていただいておるけれども13日会には、一つも臨まれないという人がある。13日会に臨でおるけれども、内容であるところのそのことは、お小分にしか出来ない人も有れば、又、出来ない人もある。どっちが本当か分からないでしょうが。例えば、13日会なら13日会の本当にその、神様の願いとするところの願いとしますか。
 例えば、お商売ならお商売をさせて頂くその商売がその、その人の商売でなく神様の商売だといったような、頂き方が出来るようになってからなら、ここにお参りをしなくてもそれは立派だと思いますね。まあ、例をもっていうならばですね、本当にお話しを頂けば頂くほど、例えばこれは、商売人だけのことだけではございませんけれども、現在頂いておるお商売が私のお商売ではなくて、神様のお商売だと。
 しかも、神様がいわゆるご主人だと、私は使用人だと。というほどの事がわかっておればよほどの事がわかっておれば、私ども十三日会なら十三日会に出席しなくてです、それはむしろ神様はそれのほうが喜ばれるかもしれんです。例えばそんな人があるのですよ。お商売ならお商売をさせていただいておりますが、本当に、現在のお商売の収入のほとんどが御造営に当てられておる人があります。そして、色んな会合にはいっちょん出てこんという人があります。お参りも時々しかせんという人があります。
 けれどもその、これが、御造営のことにですたい、この、お店から収入という収入は一切御造営のことに当てられ、当てますというような、ことになったらです、それは迷わんでも、会合にでらなくても、ね、本当を言うたらそれが本当なのです。そういうことが分かるための会合でありお参りなのです。実をいうたら。商売が、実を言うたら、あなたのお商売である事が分かるために信心の稽古はしてあるのです。
 ですから、あなたがお参りが出来なかったから、あんたの信心が間違っておるバイということは言えないのです。信心はどこまでも銘々ものであって、ね、ところがその人自身がです、ただ自分の我情我欲の為にです、もう、お参りしようと思いよったらお客さんが丁度見えたものじゃから、お参りが出来なかったというならです、やはり、自分の我情我欲の為にそれがお商売であるとするならです、これは、間違っておるです。
 自分もその間違いに気付かなければならないです。
 問題は、自分がこれでよいと、自分で思えるその信心が本当なものです。そしてそこにおかげを現しておるというのが本当なものです。おかげが表れておらんなら、これはいよいよ、考え直してみなければなりません。検討しなければなりません。信心は銘々のものですから。自分で、これが本当だと、信心のご教導を頂いて御教えを頂いて自分なりに、自分なりにこれが本当だと思う事をです、そこでお取次を頂いて、先生、現在私はこう思うておりますと。
 現在こういう風にしておりますが、これで間違いないだろうかという事を伺いまたは、そこを検討していく信心、お取次を頂いて行くところの生き方あり方というのが、私は絶えず必要になってくると思うのです。また思い上がりで自分の間違いないと思う、その思うてそれでよいというてですたい、思い上がりがそういうことになっておったらいけませんからね、修行でもそうなんです。
 先日も、善導寺の原さんが、様々な修行をなさっておられます。もうそれこそ、もう、心を削り身を削りして、信心の稽古をなさっておられます。表行も本当に人の真似の出来ないような、表行もなさっておられます。中に、もう何年間でしょうか、もう大変、甘いものが好きですけれども、甘いものも絶って修行をしておられます。一年、とこう日を切てからこう、先日ここでお届けをされますのに、もう先生、もういつとかかつというのじゃなくてから、もう一生これだけは絶たしていただこうと思いますというお届けがあったのです。甘いものを私は絶たせてもらおうという。
 ところがね、そういうことでは原さん神様は喜ばれませんよと言うことだった。もう少し工夫しなさい、もう少し斬新さがある、生き生きとしたものの感じられる修行に切り替えなさなければなりません。例えば甘いものでも天地の親神様が氏子に喜ばして下さろうと思うてから、作ってくださるものをいいや私は頂きませんというてから、歯を食いしばって、辛抱しておる事を神様が喜びなさるはずがない。
 正しそこになにか、特別なお願いがあってからです、そういう断ち物でもしておるということが、なんとはなしに生々きとした、神様を感じられるような、時代はそれでも良いと致しましてもです、私共子供達が、御造営がすむまで、テレビを見らんと、親の私のほうが見せたいような気がする。歯を食いしばっておるのですから、けれども、そのことがですその子達の将来の、信心の何かに、なれば、まあ結構だと思って、親のほうが辛抱しておるくらいなこと。
 見せてやりたいのだけれども、というてなら僕は一生見らんと、子供が言うなら恐らく私はそんな事はやめろと私は言うに違いないと思います。ですから自分の信心で、おかげを一切自分の心の中で感じさせてもらう、自分がこうする事が本当だと思わせて頂いておる事がです、ならば私はそれでよいと思うのです。私は昨夜月並祭に、正義さんが筋湯にお届けもせんで行ったという事についてお話致しました。
 私はあの事を、色々考えさせてもらいますのに、どういうわけで、私がある意味、正義さんの信心を信じておるかと、例えばもし、寄らなくてもどうしてじゃろうかと、思わないのはどういう事かというとですね、結局私は、あの人を信じておるからだと、いう事になりますけれども、あの、どんなに日参り夜参りさせてもらいましても、信用が出来ない人があります。私が、ね、この人は何時どげんなるかも分からん、という風にしか思わん人があるです。それはどういう事かと申しますとね。
 その人が信心を、生活のうえに現していないからです。その人が信心を生活に表してしていくことがそれが出来んでも、現して行く事に一生懸命精進努力をしておればですね、これはもう絶対安心なのです。なぜかというとそれは必ず体験が伴うからです。正義さんの場合なんか、それが出来ていきよる。もし出来んときには、神様の方が分からせて下さる働きがあると思うから、安心なのです。
 そうでしょうが、日参り夜参りしておってもです信心、本当に教えに基づいての生活をしていないならばですね、信用が出来んです。はぁあの人一生懸命打ち込んでお参りしよるけんで、あの人は安心という事はないです。その人はいつどげなふうに変わるか分からんです。何故って、教えを基にして生活をしていないからです。おかげのほうにも現われていかないでしょうけれども、お気付けだってはっきりあるはずがありませんからこげん人は危のうしてこたえん、信用されん。
 けれども本当にみ教えを基づいて商売でもするぞと、み教えをもとに生活をするという生き方になっておる人は、私がどうこういわんでも神様が言うて下さるのであり、分からせて下さるのです。またおかげも下さるのです。だからその人が信心生活ができておるという事が段々こちらに分かってくるようになればなるほど、その人の信用はいわば、私はあの人は大丈夫という事になるのです。
 久富先生や、久保山先生のように、朝から晩まで、私の側におってもです、その人の信心生活というものがです、出来ていないとするならばです、私はこの人たちは信用しません。何故ってお気付け一ついただけませんもん。この人は。もちろんおかげも現しきらんです。例えていうならばです。先日は飯塚から、商売の一つの転機に立っているのです。現在やっているのは、長男に譲り渡そうか、譲り渡すのにはまだ早いと、いうお伺いに参って見えられたのです。
 そういたしましたら、御神意をお伺いさせていただきましたらね、曰くという字ですね、あの曰くという字の下にですね、トンボが止まっておるところを頂くのです。ちょっと、面白い御心眼ですたいね。そしてですね、その曰くという字の間にですね、ちょっと丸いのをつけて下さるですよ。そしたらね、私の御心眼にですね、泉とゆう字に見えるんですよ。曰くとゆう字にトンボが止まっているのですよね、泉とゆう字になるでしょうが、湧く泉のようなおかげを頂くためにです、ね。
 ここんところをおかげを頂かなければまだ、譲っちゃいかんちいうわけなんです。ね。それがどういうようなことかといいますとね、皆さんあんな情景を見たことはないでしょうかね、トンボがガラスに止まってこう止まっておるとき、もうそして、向こうに行かれんもんですから、逆立ちするようにしてから、あのトンボが、ガラスに止まっておる事がありますよね、向こうにいけると思うのですよ、ガラスですから。いよいよいきずまっておるという事なんです。
 ですから、回り右をすれば、こちらは広くなってくるわけなんです。まだ自由な天地があるというわけなんです。まあちょっと、ということは、信心の一か条でも、飯塚教会にお参りしよんなさったそうですから、信心は有るとですから、本当の信心にちょっとならせていただいてです、その息子さんがですね、完全に回れ右をしない限り、まだお店はこの人にゆづってはいけないという事なんです。
 そしたらもうその、お母さんになる人が涙を流してから言われるのですよ。もう実は私共が心配しておるのはそれなんです。本人もそれを感じておるだろうけれども、それがなかなかできん。とにかくもう酒乱ですね、お酒を飲むと乱れる。ね。だから、これを一つ回れ右をしない限りですね、湧く様な泉になってこない。もう、その、息子さんが久留米におられるわけなんです。
 だから娘だけは、今日こうして久留米のほうにこうしてやらせてもろうてから、その、神様のことをいうて、本当に、回れ右をするほどしの改まりを、あんたが、出来るという言葉を、神様に出来るならばですね、もう今日からでも、お店はあんたの名前にしようと言うて帰りたいというて帰られましたけれどもね。そこに、いわゆる湧く泉のような、おかげが約束されるわけなんですよね。
 ですから私共のこの信心というものがですね、本当に信心を、教えを基にしてからの生活。それは、改まりの生活。本気でそのしておることを通しての限りなく美しくならせて頂こうとする、願い。そういう願いを持っての、信心生活でなからければならんのですけれどもです、そのお商売のこと、お商売ならお商売を通してです、ね、美しくなろうとも思わずに、そのお商売によってかえって汚うなる。
 その事によって、改まろうとしないと行ったような事は勿論、その湧く泉のようなどころではない、ささやかなおかげですら私は思いに任せないと思うのです。もうちょっと話が中心をそれましたようですけれども、私は今日は信心は銘々のものであるということなのです。主人が家内、家内が主人、お前の信心は間違っておるという事はない。家内がいいや私がこれでおかげを頂いておるならば、もうそれでいいのだと。
 主人がいくら、立派な信心が出来ておってもです、そのお気付けも現しも出来ておらんでですたい、自分もこげな事では、おかげは頂ききらんと、解っておるばってんというような、本人自身の内容に、もしあるならばですたい、それは例えよし、毎日お参りをさせて頂いても、どういう会合に出席してきてもです、それはほんなモンじゃないと、いうこと。例えば、それは、極端な例ですけれども、十三日会というような、神様の悲願に応える会なのである。ね。
 それが十三日会に出てこないからあんた、間違っておるという事ではないということ。その日一日がです、例えば、30日のその日一日だけでもです、神様の悲願に応えさて頂く為に、私が一生懸命働かせてもらうというてですたい、当時の収入の全部がいうなら十三日会にもし、お供えが出来ておる人があるとするならばです、そのほうがよっぽど本当な事だという事です。
 どうぞ一つ信心は銘々のもの、ただしそこに、私あの銘々のものであるけれども、ただ自分よがりにです、これは間違っていないという思いかたでお気付け一つ頂けず、おかげ一つ現しきらんでおるならばです、それはちょっと、私の信心のこれでよいだろうかとゆう事をお願いし、お伺いさせて頂いて一段と信心を進めていかなければならないと。自分の尺度で人の信心をはかってはならないという事なんですね。
 幼稚園からいわば大学まで、信心がありますのですから、幼稚園なら幼稚園なりにその本当のことをしておればです、おかげだけは現われてくるのですから。大学生が幼稚園のものを見て、そげなことは間違うとると、俺の真似をせろというても、大学生のまねができるはずがありませんもん。そしてかえって相手はそれに対して抵抗をする。あの人があげなこつ言うたと云うて抵抗する。かえっておかげを頂かれない。
 信心はどこまでも銘々のもの。そして、絶えず、信心は釘付けではないのであるから、それが同じ所にとどまっておるならばです、それはトンボがガラスにとまっておるもの。ね。そこに、回れ右のいわば転機にたっておるんだと一つ分からせてもらってです、もっと、広い自由なおかげの場というものがあるということに気付貸せて頂いて、そこを開拓していくという信心が必要だという事になってくる。
 昨日から昨日じゃない一昨日くらいから申しております様に、確かに神様に御信用を頂くという事はここでいうならば、私に信用をされる事。日参りお参りをしておるから私は信心をして折るという事ではない。その人がどれほど、信心生活をさせて頂こうという事に願いをかけておるか、そこがその人を信じる信じないという事なんだ。
 何故、その人が信心生活に意欲しておる、ね、その生き方あり方に信心の実意丁寧神信心が出来ておるとするならばです、必ず私がほおっておってもです、おかげを下さるだろう。また、お気付けも頂くだろう、間違いないお気付けも頂くだろうから、いくらどこにほうからかしておってもあの人の信心は大丈夫と言えれるだろうと思う。その辺を一つ分からせて頂いて、一段信心を進めていかなければならんと思いますね。
   どうぞ。